子どもたちに、「待つ」と「聞く」ことの大切さを教える教師。
でも、案外、本当に「待つ」と「聞く」をしなきゃいけないのは教師なんじゃないかと思った話です。
目次
教師が「教える」ことで、子どもたちの「答え」探しを止めてしまう!?
子どもたちに、教える立場として先生は存在している。
でも、それは本当は違うのではないでしょうか。
子どもたちは、本来自分たちで「答え」を探し、自分の納得する「答え」を見つけることができるのではないでしょうか。
教師のよくある例として、自分も含め、教師がそれを止めてしまうんです。
子どもが考えているのに、教師が「正解」を言ってしまえば、子どもは考えるのを止めてしまいます。
「答え」は先生が持っている。
「答え」は、自分ではない誰かがもっていると。
しかし、子どもたちは、自分たちで答えを見つけることができると思います。
その手助けをするのが教師の仕事なのかなと私は思います。
私が「待つ」と「聞く」を大事にしたいと思った国語の授業
今日あった国語の授業での話です。
4年生の「ヤドカリとイソギンチャク」という説明文で、「話題を変える言葉」に着目させました。
段落と段落のつながりや、まとまりを捉えさせるために必要なところだったので、この言葉に注目させたんですね。
すると、子どもたちは、「実は」と「では」の2つに注目しました。
最初は、「実は」派が9割、「では」派が1割という状況でした。
ここから、「実は」派「では」派論争の始まりです!
面白そうだったので、あえて、子どもたちに任せてみたんです。
相互指名と意見をできるだけつなげるようにということだけは意識させて。
すると、たくさんの意見が出てきました。
「実は」派の意見
前段落の話題を「本当は」みたいに書いているから、話題を変えていると思う。
「では」派の意見
前段落から話題が変わっているから「では」だと思う。
反対意見も続々と出ました。
だからね、「実は」は前の段落を「詳しく」書いているから、つながっているでしょ。だから、話題は変えていないと思う。
すると、揺れ動いた意見も出ました。
僕は、最初は「実は」派だったんだけど、「では」派に変わりました。「実は」は、前の段落とつながっていて、イソギンチャクの触手についてつながって書かれている。「では」は、前後で話題が異なっているから、今は「では」派になりました。
終わってみると、「では」派がほぼ全員になりました。
(もちろん、2人だけ最後まで揺れ動かなかった子もいましたが、納得はしていました。)
時間はかかりましたが、子どもたちの納得具合、理解具合はとてもすごいものでした。しかも、「実は」が詳しく紹介する言葉だということもわかりました。
いかに、相手を納得させることができるか子どもたちは考えました。
いかに、相手に伝わるように説明できるか子どもたちは考えました。
いかに、相手がわかるか、子どもたちは文章に着目し、考えました。
きっと、私が待たずに、子どもの声を聞かずに、
「では」が答えだよって言ってしまえば、
きっと子どもたちには「薄い知識」としてでしか残らなかったはずです。
おわりに
有名な話ですが、教育の原語の「Educate」は「引き出す」という意味であって、「教える」という意味ではありません。
教師は、子どもたちのことを信じて、できる限り子どもたちのことを待ち、聞くことに徹し、必要な時に「引き出す」ことが大切なのではないでしょうか。
アクティブラーニングが叫ばれる今こそ、
「答え」が多様に存在する今こそ、
子どもたちに「教える」のではなく、「待つこと」、「聞くこと」をしてみてはいかがでしょうか?
私は、子どもたちの可能性を信じてみたいです。